【岐阜リトリート】二度目の岐阜・上石津リトリート 人と人の間に何かが生まれる

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二年目のリトリートと「設計しない」関わり方

去年に続いて、今年も岐阜県・上石津で二度目のリトリートを過ごした。

炭焼きを見て、川で遊び、鮎を獲り、火を起こし、みんなでご飯を食べる。

予定だけ並べれば、去年とそれほど大きくは変わらない。今回も、時山の炭小屋、今須川での鮎獲り、火起こし、BBQ、翌日の川遊びなどがあった。

でも、二年目はずいぶん感触が違った。

去年は初めてだったので、みんな手探りだった。(去年のリトリート記事はこちら)


去年のリトリートの様子

どうしたら楽しくなるのか。
どう動けばいいのか。
何が起きるのか。

今年は、その手探りをもう一段進めて、

むしろ、あまり頑張って設計しないでおこう。
そんな感じになっていたように思う。
もちろん、何も準備されていないわけではない。

場所があり、人とのつながりがあり、炭焼きや鮎獲りを一緒にやってくれる人たちがいる。

そうした土地と人をつないでくれたのは、今回のリトリートを組んでくれたメンバーだ。

ただ、そこから先は誰かがサービスを提供して、私たちがそれを受け取るような関係ではない。

私たちも含めて、そこにいる全員がプレイヤーだった。
誰かが面白いと思ったことをやる。
誰かが困っていたら、誰かが手を出す。
その結果として二日間ができていく。
今年は、その感じが去年以上に強かった。

「こういう大人もいる」という景色

この地域で出会う人たちは、少し独特だ。

微生物が好きな人がいる。
発酵に惹かれている人がいる。
炭に魅せられた人がいる。

共通しているのは、人間がすべてをコントロールして成果を出す世界よりも、自然の中にある、言葉になりきらない秩序のようなものを大事にしていることだと思う。

微生物も、発酵も、炭も、完全には人間の思い通りにならない。

条件を整えることはできる。

でも、その先まで命令することはできない。

待ったり、観察したり、変化に合わせたりするしかない。

そして、ここにいる大人たちを見ていると、それは単なる趣味の話ではないようにも感じる。

一度は社会の中で普通に働き、競争し、効率を求め、そこで何かにぶつかった。

もちろん、それぞれの人生を私が詳しく知っているわけではない。

ただ、そこから自分が本当に面白いと思うものに向かって、住む場所や働き方まで大きく舵を切った人たちがいる。

微生物だったり。
発酵だったり。
炭だったり。

自然のそばで暮らすことだったり。

そんな大人たちのところへ、これから人生を歩いていく子どもたちが混ざる。

子どもたちは、これからどんな仕事をするのかも、どこに住むのかも、何を大事にして生きるのかも分からない。

そこで誰かが、
「こういう人生を選びなさい」と教えるわけではない。

ただ、「ああ、こんな大人もいるんだ」と知る。

それだけでも、これから壁にぶつかったときの選択肢は、少し増えるのではないかと思う。

酔っぱらった大人と、食ってかかる子ども

夜、面白い場面があった。

大人たちは酒を飲んでいる。
だんだん酔っぱらってくる。

そして、そんな大人が子どもに一生懸命何かを語り始める。

酔っぱらいなので、論理は多少飛ぶ。

話の途中の橋が抜けることもある。

でも、長く生きてきた中で拾った点と点のつながりは、妙に合っていたりする。

「うまく説明できないけれど、たぶんこういうことなんだよ」
という話をしている。

それに対して、子どもも負けていない。
自分が今持っている言葉と理屈を全部使って、「でも、それだったらこうじゃない?」と食ってかかる。

酔っぱらったおじさんを、自分の論理でなんとか解き伏せようとしている。

そのやり取りが、とても面白かった。

大人には、言葉になりきっていない大量の経験がある。

子どもには、経験はまだ少ないけれど、柔らかい感性と、自分なりの理屈がある。

その二つが真正面からぶつかっている。

大人は、自分の話を子どもが本気で受け止めてくれることがうれしい。

子どもはたぶん、「このおじさん、何言ってんだ」くらいにも思っている。

それでも、何かが入っていく。
正しく理解したわけでもない。
説得されたわけでもない。

でも、その大人の生き方や感覚の一部が、何となく残る。

これは、学校でいう「授業」とはずいぶん違う。

先生もいない。
正解もない。
教育しようとしている人すらいない。

それでも、とても濃い学び合いが起きていた。

おそらくこれを最初から、「子どもと大人の対話プログラム」として設計したら、少し違うものになる。

川で遊んで、ご飯を食べて、大人が酒を飲み、たまたま話が始まった。

だから起きる。

火起こしから生まれた自然発生的なチーム

火起こしも、二年目ならではだった。

去年は、火種そのものをつくることにかなり苦労した。

ようやく火種ができたときには、みんなで感動した。

ところが今年は、その去年あれほど難しかった火種が、ずいぶん簡単につくれるようになっていた。

一度経験したことが、ちゃんと身体に残っている。

ところが、今年はその先でつまずいた。

火種はできる。

でも、その火種を炎に育てることができない。

何度やっても消えてしまう。

そうなると、大人も子どもも関係なくなってくる。

誰かがリーダーとして指示しているわけではない。

張り切っている子どもがやりやすいように、大人が場所を整える。

火種を持っている子どもは、興奮して雑になるかと思えば、驚くほど冷静に空気を送り続けている。

別の誰かは材料を準備する。

また別の人は様子を見ながら動く。

全員が、その瞬間に自分のできることを勝手にやっている。

誰もチーム編成なんてしていない。

なのに、いつの間にかものすごく良いチームになっている。

私はそれを見ながら、

これ、ちょっと微生物みたいだな

と思った。

人間関係も、発酵するのかもしれない

森にも、発酵にも、微生物の世界にも、中央の司令塔はいない。

誰か一人が全体を把握して、

「あなたはこれをやりなさい」

と命令しているわけではない。

それぞれが動き、その相互作用の結果として、全体の状態が生まれる。

今回の二日間にも、それと似たものを感じた。

もちろん、成立するための土台はある。

泊まる場所があり、炭焼きや鮎獲りをする人たちとのつながりがあり、食事や移動について考えてくれる人がいる。移動が遅れれば「安全第一でゆっくり来てください」と予定を変える。

そういう大きな枠をつくってくれる人がいるから、私たちはその中で自由に動ける。

でも、その先まで決めない。

ここが面白い。

誰かが酔っぱらって子どもと話し始める。

子どもが食ってかかる。

火がつかないから、その場にいる人が勝手に動き出す。

誰かの面白そうに、誰かが乗っかる。

私たち参加者も含めて、それぞれがプレイヤーとしてその場に混ざっていく。

そうして、予定表には書けないものが生まれる。

去年は初めてだったから、その場そのものを理解するので精いっぱいだった部分もあった。

二回目の今年は、もっと力を抜いて、その流れに乗ることができた。

その結果、この場所に最初からあったものが、去年よりよく見えた気がする。

良い場というのは、全部を設計して完成させるものではないのかもしれない。

人と人が出会うところまではつくる。

あとは、そこで何が起きるのかを少し任せる。

発酵するように。

火が育つように。

人間関係にも、そんな時間がある。

来年に思いを馳せて

二日間が終わったあと、LINEには「素晴らしい2日間をありがとうございました」「自然の中で遊ぶ2日間、皆さんありがとうございます!!」という言葉が並んでいた。

私自身も、去年以上にこの二日間を楽しんだ。

場所をつくり、人をつなぎ、そこに私たちが混ざれる余白を残してくれた皆さんに感謝しつつ、来年もまたこの中に混ざれたらいいなと思っている。

そのとき何が起きるかは、今から決めなくていい。

むしろ、決まっていない方がきっと面白い。

須賀 孝太郎
おおたかの森ファーム 代表取締役
東京工業大学工学部を卒業後、工業デザイン事務所にてデザイン業務を経て、家業である税理士事務所に入社。そのノウハウを生かし経営コンサルティング おおたかの森ファーム株式会社 を設立。ボクシング好きの三児の父。
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